ごあいさつ

2006年の8月、まだまだ強い日射しがまぶしい晩夏のある日、週末だけの器屋として都内・東中野にオープンいたしました。「器が好きなら週末だけでもやってみれば」という知人の一言をきっかけに、ただ「器が好き」「(けれど)売りたい器はあまりない」という少女的な発想しか持たない、小さな始まりでした。ところが、器をたくさん見るにいろんな問題にぶちあたり、器をきっかけに考えるべきテーマをたくさん与えられました。私にとって器は愛すべき趣味であり、世界を見るための入り口であり、ライフワークでもあります。

器を見て売る、という事なだけにいつも客観的であることを心がけています。(誤解を恐れずに言えば、どんなに良いなと思うものであっても、陶芸家の器だけを並べたテーブルは、時に息苦しくなってしまいます。意味が過剰になりすぎるからかもしれません。)
とはいっても、陶芸家の器には、一般に一定の質のものを量産している職人の器と異なる点があることは確かです。意思を持って1人の陶芸家がよりよいものを目指せば、音楽のように、小説のように、絵のように。器も使う手に伝わるものがある。さらに使い手は自分なりに器を解釈し、器を自分のものとして使いこなしてゆく。そんな器を通して自然に生まれる、ある種身体的な、密やかな相互のコミュニケーショにどうも惹かれてしまうのです。器はただの道具にすぎないのかもしれませんが、陶芸家の器をあえて選ぶ理由がそこにあると思います。また、そうしたコミュニケーションの土台には、ひとが千年以上もの長い間焼き物を焼き続けて来た歴史があります。作り手も使う人も器も、脈々と続いてきた大きな流れの一部を担っており、皆同じ舟に乗っているように感じています。。

ながく使っていくものだから(ながく使えなかったとしても残るものがあるから)こそ、作り手の独りよがりではない器がいい。できるだけ純文学のように、作り手の目を通して何かを伝えてくれる器がいい。あるいは純文学的でなくても、新しい文脈の魅力を見せてくれる器がいい。閉塞感のあるこの時代だからこそ、強い意志を持って次の可能性に挑んでいるような器がいい。そんな器作りを目指す作り手を陰ながら支えていきたい。そう思いながら、日々皆さまに器をお届けしております。

静かな小さな店内で、器を手にゆっくりとした時をお過ごしくださいませ。確かなものが見えにくい時代にあって、同じ時代をともにする作り手が向う側に感じられる器との出会いが、かすかでも日々のたのしみや生きていく何かの支えとなれば嬉しく思います。

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